フランシスタウンは、ハボローネ、マウン、カズングラ、そして隣国ジンバブエへ向かう全ての幹線道路が通っているため、北部への玄関口として重要な国境の町です。ボツワナで最も古い町の一つであるとともに、南部アフリカで初めてゴールドラッシュが起こったところでもあります。人口は9万2500人で、ボツワナで2番目に大きい「北部の首都」であるにもかかわらず、独自の個性を保っています。
人が住んでいた痕跡は、8万年前まで遡ります。1820年代には、ンデベレ族がブラワヨ付近に落ち着く前に、この辺りを暴れまわり、ボツワナ北東部のカランガ族の領土に影響を残していっただけでなく、徴税までしていきました。
ニャンガブウェ(現在のフランシスタウンに最も近い村)を初めて訪れたヨーロッパ人は、宣教師のロバート・モファットでした。モファットに続いて同地域を訪れたカール・マウフが、1867年にタティ川沿いで金を発見し、その後すぐにフランシスタウン自体により多くの鉱床があることがわかりました。フランシスタウンは、南部アフリカで最初に「ゴールドラッシュ」が起こったところです。「アフリカのオフィル(聖書に出てくる黄金をもたらす地)」としてもてはやされた地域には、探鉱者や探検家が押し寄せ、誰もが名声と富の権利を主張し、オーストラリアやアメリカのような遠方から来た者もたくさんいました。
人々が急速に流れ込んだため、フランシスタウンの名前の由来となっているダニエル・フランシスが町を設立する計画を立てました。当初、町には、ケープ・カイロ鉄道の線路と平行に走る、賑やかな西洋風のバーや日用品店が並ぶ一本の目抜き通りしかありませんでした。
現在では、たくさんの古い縦坑やゴミ捨て場が都市部に散在していますが、その歴史のほとんどは、初期の開拓者の夢とともに長い間忘れ去られています。しかし、「フェニックス」、「ボナンザ」、「ジムズ・ラック」、「レディー・メアリー」、「ホワイト・エレファント」といった、今でも残っている数か所の鉱山の名前から、当時の熱気が思い起こされます。当時を物語るのは鉱山の名前だけではありません。フランシスタウンの目抜き通りは今でも「ブルージャケット通り」と呼ばれており、その呼び名はかつて活躍した探鉱者、サム・アンデルセンに捧げられたものです。サムは、探鉱用の手押し車以外にはほとんど何も持たずにオーストラリアの西部砂漠地帯を初めて横断した男として、ボツワナに到着する前から知られていました。いつも着ていたブルーのデニムジャケットにより、彼はフランシスタウンで有名不朽の存在となりました。
ボツワナ東部では、金の鉱脈の幅が狭いうえに複雑に入り組んでいるため、初期の金鉱労働者にとって金の抽出は非常に難しいものでした。1940年代までに小規模事業は中止され、大規模な鉱山が残りましたが、それらも現在では新たな発見と金の価格向上を願って操業を続けているだけとなっています。
現在では鉱山よりカジノのほうが幸運を当てられるとして、数軒のカジノをはじめ、フランシスタウンのナイトライフは華やかな賑わいを見せています。フランシスタウンには、様々な素晴らしいレストランや洗練されたショッピングモール、映画館、ナイトクラブ、ジャズクラブ「ニューヨーカー」、会議施設も整った優良ホテル、ボツワナ最大規模の紹介病院、広大な図書館、スポーツ施設、管理の行き届いた公園、活気あふれる市場などがあります。
最近のフランシスタウンは好景気に沸いています。フランシスタウンは、ここ数年の間に、元のほこりっぽい国境の町としての雰囲気がなくなるほど変貌を遂げました。
ジンバブエ(国境まで90km)を目指して北に進む場合も、マウンまたはカサネを目指して北西に進む場合も、フランシスタウンは、必要になる生活用品を購入したり、長距離用ドライブに備えて燃料を補給したりできる便利なところです。